厚生労働省の発表によると、11月に、全国で自殺した小中高校生は、合わせて48人。
去年11月の26人から2倍近くに増えました。
「自分なんて生きていてもしかたない」「死にたい」「消えたい」
子どもたちから相談機関に寄せられている、多くの叫び。ことし、子どもの自殺が大幅に増えています。4月以降で、すでに300人以上にのぼり、コロナによる社会変化が背景にあると指摘されます。コロナ感染による10代以下の国内の死者は、現在までにゼロ(12月23日時点)。「感染で亡くなった人はいないのに、なぜ」、ネット上にはそんな声もあがります。
子どもたちに何が起きているのか。そして大人は何ができるのか?
それをするためには、第1に「子どもの目線」と同じにならなければなりません。
子どもは大人を信頼していないし、大人も子どものことを信じていません。だからあれこれ「しなさい」「しちゃダメ」と指図して、「できるできない」で評価する。そこには子どもの意思も自由もない。まずはそこが問題。
子どもは「いい子」に育てちゃいけません
「ひとりで悩まないで相談してほしい」は上から目線です。寄り添い感がない。多くの相談機関は「気軽」には行けない。そこに行くには条件がありハードルが高すぎる。それがどんなに大変なことかわかっていますか?
そして、大人も子どもも「評価」の視点、観点を180度変えることが必要です。競争に勝つこと、我慢すること、規則に従うこと、みんなと同じにすること、他者と比べられること、「いい子」になること、このようなさまざまな「しばり」によって子どもたちは制限され行き場を失う。
「来なさい」ではなく「行きたい」から行く
「居場所」とは空間ではなく、人と人との関係性です。安心して「弱さ」を言い合える関係性です。そこに「支援」は要りません。お互いが同等の関係性があるだけです。そこには条件などありません。評価なんか不用です。
居場所は「場所」としての空間よりも、そこへ「居る」「来る」人であるとか、そのような人々から醸し出される雰囲気が重要。
人と人との関係性なんだわ。
「居場所」とは、人と人との関係性という環境のことをいいます
「不登校の子どもは、学校に行けないからそこに行けばいい」とか「ひきこもりの人が働くためにこうすべき」だとか、「障害者の「枠」の中での障害者雇用」だとかということではなく、自分がそうしたいからそこに行く、自分がやってみたいからやる、という場を作っていくことが大事です。
それをやりたくなったらやってみたらいい。
そこに行きたくなったら行ってみたらいい。
誰か会いたい人が見つかったら、直接行って話してみたらいい。
その場所や人が自分にとって居心地がよければ、それが「居場所」になります。今の居場所つくりってこのような大切な視点が抜けているような気がします。「当事者意識」が欠けている「してあげる支援」ばかりあるような気がします。
不登校の子どものための「居場所」っていう枠って、どうなのかな?
なにもしなくてもいい
「ひとりで悩まないで相談してほしい」も要りません。「気軽に来てください」も要りません。何かをするために行くのでもありません。
特別な枠なんか要りません。
ただそこに居る。
ただいっしょに居る。
「行きたいな」「会いたいな」「話したいな」
なにもしなくてもいい。
それだけです。