教育

変えよう! 日本の学校システム 教育に競争はいらない

投稿日:12/09/2016 更新日:

古山明夫さんのいう「学びのスタイル」には大いに賛同します。

私は「ホームスクーリング」というよりも「ホームエデュケーション」「オウンドエデュケーション」という言葉の方が”好き”です。
子どもは、「知りたい」「できるようになりたい」「社会の役に立ちたい」という欲求を持っています。
人は、内発的動機によってはじめて主体的、能動的、積極的な行動ができます。
そして他者に対する貢献感、役立ち感によって自分の価値を自覚することによって自己肯定感、自尊心が高まります。
多くの学校でやっている「賞罰教育」は褒められたくてやるだけ、罰せられるのがいやでやっているだけの人間を作り出しています。学校からの評価による脅しで勉強や集団活動を強いられていますから、そこには主体的な学びの姿はありません。
「賞罰教育」では、評価を目的とした行動しかしなくなるため、周囲の評価を絶えず気にして、(周囲の者にとって)「善い行動」を行おうとします。

これは、人の顔色を伺いながら、子ども自身のやりたいこととはかけ離れた行動になる危険さえあります。
(これは、アドラー心理学の考え方とも重なります。)

大人が子どもに勉強や行動に対するノルマを課して、勝った者を褒め、負けた者を叱責するのは最悪の行為です。
勉強でもその他の活動でも、点数をつけて児童生徒を互いに競争させることは人間の尊厳を失うことにつながります。
学びの目的は他人と競って勝つことではありません。その競争に勝った子はほんの一部分で知識量が多いだけのことにすぎないのであり、それが人間性を決めているのではありません。
学校の評価で人格まで決まってしまうような恐怖に怯えている子どもや親御さんもありますが、決してそんなことはありません。
小さな小さな枠の中で競争に負けた子は自信と意欲をなくします。
それではますます学ぶことを楽しいとは感じなくなります。

大事なのは他者との競争に勝つことではなく、自分の欲するままに物事を学び取ることそのものです。
何かができないからと叱責する?
できないのは悪いこと?
人より遅れているとダメなこと?
決してそんなことはありません。
これは、小さいころから「優劣」で人を評価することでしかものごとを見ない習慣から来ています。
「優れている」「劣っている」という評価基準自体に問題があることに全く疑問を感じることなく、それがいかにも当たり前の評価、見方として刷り込まれていることが問題なのです。
「できる、できない」というのは評価基準でもなければ善悪の問題でもありません。
子どもに限らず、教育のもっとも重要な部分は点数をつけることは不可能です。

学齢期になったら同じ年齢や同じ地域の子どもたちを強制的に集める学校では、子どもたちは心の中に壁を作り、「違いのある子」「仲間集団に馴染めない子」など、自分たちの枠から外れる子を排除しようとする働きが強くなります。
その結果として、学校を取り巻く様々な問題が止むことがありません。
事が起こるたびにその場限りの対処療法が行われていますが、それでは根本的な解決は不可能です。
「ホームエデュケーション」は「学ぶフィールド」が家の中に限定されるのではなく、多様性に満ち溢れた無限大の世界が舞台です。
このようなつながりは、枠に閉じ込められた小さな学校に行っていたら絶対に出会えない関係です。
子どものすることは学校の教科と関係なくても何の問題もありません。
子どもが能動的、積極的な行動に向かえば何をやっていても能力は大きく育っていきます。

学校が楽しくてメリットがあると思ったら行けばいいし、それを感じなかったら嫌なことを我慢してまで、無理して行かなくてもいいんです。
学びのスタイルとして学校の形がマッチするのであれば行けばいいし、学校のスタイルが合わなければ別の学び方もたくさんあるということです。
これは、職業や職場の選択についても同じことが言えます。
どこかの職場に行って仕事をしてもいいし、家で仕事をしたり、世界を旅しながら働くという方法もあります。
その選択の決定権は、子ども本人にあるということは強調しておきたいです。
私は学校よりも「オウンドエデュケーション」の方が合っている、好きだということです。

オルタナティブスクール、ホームエデュケーション、フリースペース、フリースクール、そして学校や塾、このようないろいろな「学びの場」が求められています。学校はその中のひとつにすぎないのです。

私は学校へ復帰させるためだけを目的とするのではなく、様々な場を作っていくことの方が重要だと思います。そして子どもがそれらを自由に選んで自由に学べることのできる環境作りが必要です。そのためには、社会の理解も広げていく必要もあります。
まだ少ないですがすでに各地にはできていますので、学校が合わない子はそこへ行けばいいんです。家にいたってなんの問題もありません。
このような考え方の子どもたちや親御さんが増えていることは喜ばしいです。

今各地で学校の統廃合が進んでいますが、そうではなくて、統合で残った校舎を使って多様な形で学べる場を作るべきです。
学校をまとめて減らすのではなく、増やしていくべきなのです。そうすれば「不登校」という概念そのものがなくなります。
学校以外の選択もあって、どこに行ってもいいという社会的な認識を広めていきたいです。

古山教育研究所 

スポンサーリンク

スポンサーリンク



スポンサーリンク

スポンサーリンク



-教育

執筆者:

関連記事

なぜ日本はいじめが多いのか? ちょっと違う個性的な子どもたちは排除の対象になる

子どもたちがいじめを苦にして自殺する事件があとを絶ちません。 ・子どもに起こっていることは、社会の問題を反映している。 ・日本は「溶け込めない人」「空気が読めない人」に対して、非常に冷たい社会であるた …

むしろ「不登校」とは子どもにとってその親にとって肯定的な選択

「不登校」を否定的に受け止めるのではなく、むしろ、子どもにとって、その親にとって、肯定的な選択だといっていい。 いわゆる「ふつうの学校」に通っていない生徒たちの皆が、それぞれに個性的に、しかし主体的に …

今年は学びの改革元年、学びのスタイルの自由化が広がっていく

今年は学びの改革元年になります。 学びのスタイルの自由化が広がっていきます。 以前は、どちらかというとメディアの方が情報を先行していましたが、この度のコロナショックによって国も自治体も情報発信に努めて …

天才的な人はみんな学校が嫌いだった その理由には納得です

18才のときに買った本。 天才的な人はみんな学校が嫌いだった。 その理由は規則で縛られて、みんなと同じことを強制され、授業も退屈で面白くなかったから。 だから、学校へは行っていない。 だから、授業も受 …

脱学校によって「不登校」という概念をなくすことができる

脱学校によって「不登校」という概念をなくすことができます。 学校がなくなっても、まったく困りません。学校がなくても「教育」「学び」は成立します。むしろ、人々は自分で考えるようになり主体的な学び方、生き …

スポンサーリンク

スポンサーリンク